口伝、あるいは人間の劣化(#2)
2020-01-04


> from 「二十世紀末の闇と光」井筒俊彦vs司馬遼太郎
      (1992年晩秋) in 『中央公論』

(井)若い頃私の前に二人の韃靼人が現れまして、その二人との
運命的な出会いがあったために私はアラビア語をやり、イスラム
をやって、おまけに学問というものはどういうものか、学問はかく
あるべきだ、というようなことを学んだ。

 一人は、アブド・ラシード・イブラービームという、もう百歳近い
お爺さんでした。・・・「アラビア語をアラビア語としてだけ学ぶなん
てことは馬鹿げている。イスラム抜きにアラビア語をやることは愚
劣だ。アラビア語をやるならイスラムも一緒に勉強しなければ駄
目だ」と。・・・

(馬)話すことはイスラムで、イスラムの古典が全部頭の中に入っ
ていて、本なんか持っていなかったそうですね。

(井)本なんかもちろん必要ない。

(馬)頭の中の本というのは全部、逐一暗誦された言葉なんです
ね。

(井)イブラーヒームの場合は、『コーラン』とか基礎的なものを暗
記しているわけで、何から何まで知っているわけじゃなく、全部頭
に入っているというのは第二番目のタタール人の場合です。・・・

 あるときイブラーヒームが、「わたしはもう、教えることはみんな
教えた。これ以上、おまえに教えることはない。だけど、もうじきわ
しなどとは比較にならないすごい学者が日本に来る。おまえに紹
介するから、そこへ行って習うがいい」と言うんです。

 その先生というのがタタール世界で随一の学者だった。実に面
白い人で、諸国漫遊というか、一所不在で、世界中を回って歩く。
後に、「何のための世界旅行ですか?」と聞いてみましたら、「神
の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイス
ラム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的
で、先ず生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造
し給うたかを想像すると言うんです。

 その人はムーサー・ジャールッラーハという方ですが、・・・弟子
入りしてみたものの習うといっても本もないし、どうするのかと思っ
たら、「イスラムでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、
その場でディクテーションで教えてやる」と言うんです。

 約1000頁ぐらいの「シーバワイヒの書」(アラビア文法学の聖書、
8世紀)を習いたいと言ったら、ムーサー先生はその本を端から端
まで暗記している。その上に、その注釈本を暗記して、更に自分
の意見がある。それで、アラビア文法学を教わった。その他にも
いろいろなものを先生から教わりましたが、なにしろ本は使わな
い。全部頭の中に入っている。まあ、それはあっちのほうの学問
の習慣でもある。

(馬)古代からの習慣ですね。

(井)「これ、人間わざか」と思うほど凄い。ある時、「おまえ、ずい
ぶん本を持っているな。この本、どうするんだ」「もちろん、これで
勉強する」「火事になったらどうする?」「火事で全部焼けちゃった
らお手上げで、自分はしばらく勉強できない」と言ったら、それこそ
呵々大笑するんです。「なんという情けない。火事になったら勉強
できないような学者なのか」と。
・・・「・・・何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テク
ストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横に働かせる
ようでないと学者じゃない」と言うんです。我々みたいに、ただ本を
読むだけでやっとみたいなのは、学者でもなんでもない。・・・

 「コーラン』と、ハディース(マホメット言行録)と、神学、哲学、法
学、詩学、韻律学、文法学はもちろん、ほとんど主なテクストは、
全部頭に暗記してある。だいたい1000頁以上の本が、全部頭に
入ってしまっている。
[読書]
[人間の劣化]

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