『ペスト』#28
2020-05-19



>病疫のの突然の退潮は思いがけないことではあったが、し
 かし市民たちはそう慌てて喜ぼうとはしなかった。皆な考え
 ることが一致しているのは過去の生活の便利さは一挙に回
 復されないであろうし、ただ、問題の食料供給だけでも少し
 は改善され得るだろうし、で、そんな風にして、最も切実な心
 配事から解放されることになるだろう、と見ていた。しかしど
 う考えてみても解放は今日明日のことではないと断言する
 のであった。事実、ペストは今日明日には終息しなかったが、
 しかし見たところ、妥当に考えて期待されたよりも、もっと早
 く衰退して行くようであった。

>1月の一ヶ月間というもの、市民たちはまったく矛盾した動
 き方を示した。
 その時期に、また新たな脱走の企てが記録されている。こ
 れらの時期に脱走した人々は自然な感情に遵ったのであ
 る。ペストによって深刻な懐疑主義をしっかり植えつけられ
 てしまい、どうしてもそれを振り捨てることができなくなって
 いた。希望はもう彼らの心に取り付く余地がなかった。
 ペストの時代が巡り終わった時にさえ、彼らは相変わらず
 ペストの基準に従って暮らしていた。
 またある人々の場合は、これに反して、この長い幽閉と消
 沈の期間の挙げ句に、沸き起こった希望の風は一つの熱
 望と焦燥に火を点じ、それが彼らからあらゆる自制を奪い
 去ったのであった。自分たちは、最後の目標にこんなに近
 くなってから、ひょっとすると死ぬかもしれない、最も愛する
 人間にも再び会えず、この長い間の苦しみもついに報いら
 れないかもしれない、と考えると、一種の発作的恐怖のよう
 なものに、彼らは捕らえられるのであった。幾月もの間、暗
 い頑強さをもって、幽囚と追放にもたゆまず、彼らは根気よ
 く待ち続けて来たものであったのに、ちょっと希望の光が
 見え初めただけで、それまでは恐怖や絶望も揺るがすこと
 のできなかったものを破壊するに充分であった。彼らは
 ペストの足取りに最後の時までついて行くことができず、
 それを追い抜こうとして気違いのように突進したのである。

 もっとも、同時にまた、楽観思想の自然発生的な兆候も
 出現した。例えば、物価の顕著な下落が記録されたこと
 などがそれである。また、以前に集団をなして生活してい
 て、病疫のために分散を余儀なくされていた人々にも波
 及した。市内の二つの修道院は復旧され始め、共同生
 活も再開されうることとなった。軍人たちの場合も同様で
 あった。
[読書]

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